「くもとり号」昭和41年(1966年) 6月5日

 



茗渓堂の「山日記 1965 」 巻末に書かれている 名言。

「私は幾度か山日記をつけてみようとした。がその日の出来事を書こうとすると、その時は何だか馬鹿らしいような気がした。でも一寸した つまらぬことでも書きとめておくと、あとでその時のことを思い返す時、大へん役にたつものだ。」シプトン





「くもとり号」


■古い記録を 整理していたら
昭和41年(1966年) 6月5日 の山行記録がでてきた。

三峰口 三峰ロープウェイから雲取山 石尾根経由 氷川(現在の 奥多摩駅)

まだ 若すぎる年頃、同じ年のM君との 2人での 山行。

今だったら 親が子供を連れて 子連れ登山などあるが 
その当時 幼い年頃の同じ年 二人だけで 計画・立案・実行した山行。

それにしても 幼い同士 怖いもの知らずで、よく こんな山行をしたものだと いまさらながら 感心。

■山登りに かぎれば やや早熟? というより その当時は なにごとにも 若くして チャレンジすることが 求められる 時代背景があったのだろう。

何事にも前向きに 若い人が のびのびと好きな事が出来る そんな 古き佳き時代だったのだろう。

■ 昭和31年の日本隊のマナスル初登頂をきっかけに大きく火がついたような登山ブームがおこってから10年余たった昭和41年当時には 登山は ブームから いよいよ本格的に 大きく定着し発展していた。

昨今、中高年齢層が主体となっているが、昭和41年 どこの 山々も 若者 ばかりで 占められて 山をのぼるのは 若い人 主体の時代であった。

幼い 私など登山ブームの流れで 知らぬ間に この潮流の中に 入っていったのだった。
■その昔 東洋一のロープウェイだった三峰ロープウェイも 今は廃止。

熊谷経由秩父鉄道だったのが 池袋から西武線もでき西武秩父へ。三峰神社へは 自動車道ができ 西武秩父からバスで神社まで登れるようになっている。

それに 雲取山ピークハントだけなら鴨沢から往復するのが一般的なのだろう。

■山は 時代とともに アプローチも便利になり 登り方も 変わって 山小屋も大きく立派になり 山小屋泊まりで 縦走する人もいるだろう。

いまと 昔と 比べてみて 山自体かわってないところもあるかもしれない。

が 登山者がどう登るかという点では より不便で より苦労の多い 昔のほうが よりチャレンジ的な要素が多く ワクワクした山行が楽しめた のは確かだ。

■三峰神社 雲取山 石尾根 氷川。 確かに 長い縦走路だ。

若くても ロングコースを厭わず チャレンジする この時の山行スタイルは 時代背景は変わっても その後の 現在に至る 私の山行スタイルにも 様々な形で引き継がれていくことにもなっている。



 この山行記録の拙い字句を みて 当時の記憶が あざやかに よみがえってきた。
(カメラは携行していないので写真なし)





■「くもとり号」

上野駅 始発 高崎線経由 秩父鉄道「三峰口」行

上野20時38分発

熊谷からは ガラガラ。寝ず。(一睡もせず)

三峰口 着 23:20

バスが まっていて すぐ乗り すぐ発車 40円

大輪 着 23:45
ここでも 少し雨が降っていた

5-6分 歩いて ロープウェイ駅につく

ロープウェイ 発車 220円高すぎる

山頂駅 24:00

大体 40人くらい 山頂駅に着く。

3-4のパーティーは 出発準備をしていた。

小雨

前に いく人の あとに ついて神社に向かった。道が少し 複雑だった。

24:30 神社の水飲み場でビバーク。寒い。小雨に濡れたためか。

風が強くなって 風下の 家の軒下へ移る。

結局 寝られたものじゃなかった。
他のパーティーは全部いってしまった。


■三峰神社 2:35 出発。ヘッドランプ無しで歩く。小雨は止んでいた。
月夜で明るいと思ってしばらく歩いたが やはり ヘッドランプだす。

道は 明瞭である。

妙法岳 分岐 3:10

霧藻ヶ峰 (4:00-4:15)だいぶ明るくなってきた。パッキングし直す。

お清平 4:25

 すばらしい 夜明け

前白岩5:00

わりと きつい登り途中 15分休憩

白岩山5:50
芋の木ドッケ 6:00
 だらだら道
大ダワ (6:25-7:20)朝食

■雲取山 山頂 (7:55-8:40)
しばらく休憩

雲取山荘9:00
 水筒に水つめる

石尾根に向かう 長いだらだら道

10:50-11:30 昼食

六ツ石13:10 きたない売店

途中 2回 休憩

■氷川着 16:00

駅に近づくにつれ 山道を 歩いていく 都会着の 地元の方に 追い越されていった。





かつて 東洋一 今 廃止