山登りとは 身の丈の範囲で いかに苦労して 山を登るか?楽して登った山ほど 印象は薄く 苦労して登った山こそ 記憶に強く残る


「山登りとは 身の丈の範囲で いかに苦労して 山を登るか?」


1963年 夏 剣山

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楽して登った山ほど 印象は薄く
苦労して登った山こそ 記憶に強く残る
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よくよく ふりかえってみれば 楽して 登った山ほど 後で振り返ってみて 印象は薄い。

苦労して登った山のほうが 記憶に強く焼きついて いまだに印象 強く残っている。

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昭和38年(1963年)夏、 はじめての剣山
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1963年 終点 「滝の宮」

昭和38年(1963年)夏、 はじめての剣山(1955)登山のコースは 穴吹 コリトリ 一の森 剣山 見ノ越 夫婦池 剣橋だった。

穴吹駅からバスに乗り、終点 「滝の宮」から歩いた。


1963年 コリトリ

その当時の 剣山は まだ 道路がなくて 下のバス終点の集落から コリトリまで 14㎞ えんえんと 歩き アプローチに かなり苦労したが いまは 標高1400m 見ノ越まで 車ではいれるし、登山リフトにも乗ると標高1700mまで いとも 簡単に登れるようになっている。

 道路ができて アプローチが短縮され 楽に山に歩きができるなど 便利になって、 一見 良さそうなのだが。。。

長いアプローチをふくめて 麓から じっくり辿って 山を 楽しむという観点では 交通機関が 便利になってしまうと 山の楽しさの 大事な部分を削いで 失ってしまう危険がでてくる。

昔は 山の道具・装備・衣類なども 低性能で 重たく 冷たく 嵩張ったが 今は高性能で 小さく 軽くて 快適になった。

が ずばり どちらが よかったのか 考えてみれば 悪い装備で 下から長いアプローチをへて 重荷で 苦労して のぼるほうが いまのように楽して登るより もっと もっと 山を楽しめたのではと思う。

良い装備に慣れて くるまで上まで行って 楽をすれば 昔 苦労したのに比べ なにかを 失っている のではないだろうか。

50年以上前の 剣山登山を いま ふりかえると その当時 本当に 苦労して登っただけに 記憶に強く焼きついて いまだに印象 強く残っている。

反対に 数多く 登っていても 楽して 登った 山などは 後で振り返ってみれば 印象は とても薄い。


1963年 剣山 測候所

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「僕は何も回顧趣味に溺れるわけではない。
近代科学の恩恵にあずかぬことは馬鹿げている。
しかしヴァレリーが、近代の人間の精神的怠慢は科学の発達による、という意味のことを言っていたことを思い出す。
スピードとイージーが容易く手に入る結果われわれはもはや苦労して得ようとはしなくなった。
手軽な翻訳本が出てきたために誰も字引を引き困難して原著に就くものがなくなったようなものである。
精神の滋養となるものはそういう困難の中に存するのだが。」

深田久弥
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つまり 山は苦労して 登れば登るほど 味わい深く 楽しめるものなのだろう。

そういう意味で 四国八十八カ所を 車でスルーとと 回るより じっくり自分の足で 苦労して 歩きとうす 歩き遍路のほうが より印象深い 遍路旅を満喫できるのと よく似ているかも?

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一つ山を登れば また 次の山が 出てくる
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もとより 山のよさなど はじめは なんだか よく わからないのだが 苦労して 山に登っているうちに 山のよさに すこしづつ 気づき 山を味わうこともできるようになる。

山のよさに すこしづつ 気づき はじめると、 山のよさを 求めて また山へ、またひとつ 山に 登れば また 次の 山にと 次々に 苦労して のぼりたくなる。

今回 楽勝ならば 次は もうすこし苦労して 辛勝の山に のぼりたい。

山に のぼれば のぼるほど 次の山が 出てくる。

すこしでも 高い山 少しでも 難しい山。すこしでも難しい時期 難しいルート。雪 氷 岩 沢。

エンドレスに 際限なくひろがっていく 次の山。次の山。次の山。。。。

これは 人間の欲というものだろうか?

そうした人間の どんな欲でも 山は かなえてくれるのだが
人間の欲は 所詮 はかなく 浅く軽薄だ。

それ以上に 山の 奥行きは とてつもなく 深い。

山のよさは 奥深く 人間の欲だけでは どんなに頑張っても そう簡単には 山のよさの すべてを 味わえるものではない。

 短い人生のうちで 登れる山など しょせん 点と線で ごく 小さな範囲内でしかなく ほんとうに ごく限られた 小さな中で 小さく うごめくだけなのだ。

そうしたことが 頭では わかっていても、 それでも 次から次に でてくる 次の山。次の山。

もう とても とても 登りつくす ことなど できないと まずは 観念しなくてはいけない。

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謙虚さ
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だいいち 欲のままに 山に登り 身の丈に合わなければ 山で でくわす リスクは ふえていって 身の危険にさらされ 危ない場面に でくわすことも 多くなってくる。

「次の山」を登りつくしていくと そのうち 謙虚さがなくなり 傲慢さが 目につくようになれば 時には きつい しっぺ返しの 痛い目に あうことも あるかもしれない。

痛い目に あわないようにするには まず 謙虚に 足元をみつめて 自分の身の丈にあうような 山の 登り方を考えてみることが大事だ。

そのさい 流行 とか ほかの人の 動きに 惑わされずに、
ひと それぞれ 山歩きの楽しみ方があるだろう。
ほかの方々は また違った 山ののぼり方が ある ことを 忘れずに!

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「山のぼりとは 身の丈の範囲で いかに苦労して 山を のぼるか?」

結論 自分の山を探す
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どんなに頑張っても 人が登れる山は ごく限られた 小範囲の点と線。

そのなかで せいぜい 山を ながく より深く 楽しむには

「山のぼりとは 身の丈の範囲で いかに苦労して 山を のぼるか?」

を 考えて、 考えて、

 「あせらず、 あわてず、 あなどらず」、

 自分の山を 探して いきたい。

2015年8月25日 記

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